昭和54年04月30日 朝の御理解
御理解 第26節
「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」
大変難しい事を御教えなっておられます、ね。最後の日に日に生きるが信心なり、というのも大変な難しい、熱心な事だと思うです。又連れがいるとかいらないとかというのも、ううんまぁ誘いあってお参りをすると言った様な、ね。あんたが参るなら私も参る、あんたが参らんなら私も参らんという、そういう意味な事もあるかも知れませんけれども、私は今日は、もう連れになろうにも、連れになれないほどの信心を頂きたい。いやあぁもうあなたの真似はでけんと、人が言う位な信心を頂きたいと思うですね。
まだ私三井教会におかげを頂いております時に、今の三井教会の総代をしておられます、渕上米蔵という学校の先生がおられます。私よりも10ぐらい多いいでしょうか、もういわゆる、なんというでしょうか、年は違いますけれども、もう信心の上では、まぁやれ信心友達でした。ある時「大坪さん、あなたがおかげ頂かんなら頂く者はなかですばい」っち言って、言う話が出たんです。
そん時私は「私もそげん思うですがね」っち。「私がおかげ頂かんなら教祖様は嘘を仰るとるっと私は思うですよ」と、言うた様な話をした事があるんです。どうでしょうか皆さん、あなたがおかげ頂かん筈がないですよ、まぁ私がおかげ頂かん筈がなか、と私は思うと是は言うならば、もうそこには私の連れはなかったという意味だと思うのです。もうあんたが真似なでけんと言う事だと思うのです。親先生もそれを仰っておられました。いやぁとても私はあんたが真似はでけんばのっち言いござった、親先生が。
と言う様にです、ね、もう本当にもう連れがいらんじゃなく、てもう連れにもうなれない、もうあの人のあの人の真似はでけん。これはもうあらゆる意味でそうなんです。ご参拝ならご参拝、修行なら修行、御用なら御用、どういう点からいうても、私が三十数年前の私はそう言う事に、まぁ力一杯のものを出し切っておった。そこに私がおかげ頂かんなら頂くもんはなかばいごと私は、私もとまぁ言うなら大胆な事ですし、ええでしたけれども、その時はそれが実感でした。
そしてだんだん、ううん信心を進めさせて頂いて、今日に至ってから私が思う事が、どう言う事かというと、私ぐらいな者のところで、どうしてこれだけの人が助かり、これだけのごひれいが輝くようになったのだろうと、私が見え出した。何にも出来ない、言うならば自分というものを、見極めれば見極めるほど、私のような者が私のような所で、と言う事になってきた。日に日に生きるが信心という事は、ね、日に日に自分というものが無くなっていく、ね。
だから今日は新たな、私がおるのである。新たに今日誕生したのである。日に日に生きるが信心、とはそう言う事だと思う。三十数年前に、私がおかげを頂かなかったら頂く者はあるまい、もし私がおかげ頂かんなら、教祖様は嘘を教えておられる。という所もね、私はやっぱり通らせて頂かなけないかんと思う、ね。言うなら、一生懸命な信心とはそういう事じゃないだろうか。
そして自分というものが無くなっていくに従って、私の上に天地の親神様の働きが、ね。言うならば一寸無くなれば一寸こちらに入って来て下さる、1尺私が無くなれば1尺神様が、私のなかにに入って来て下さる、ね。言うなら、私がいよいよ自分という者をむなしゅうした時には、もう私の全身全霊の中に、天地の親神様が入り込んでしもうてござる。そんな感じです、ね。
だから信心とは確かに日に日に生きるが信心です。ね。それこそそのつう一杯の信心をさせてもらう。そこからです、私がおかげ頂かんなら頂く者はあるまいと、もりもりとして湧く様な、言うなら確信に満ちた、どいう中にあって、もそういう生き生きとしたものがあった30年前から、段々だんだん、それがまぁどうして、あぁ言う事が言えただろうかと思うように、自分のような者が、自分のような者が。という自分というものが分かりだしたら、自分というものが言うなら小さい小さいものになってきた、ね。
小さい者になってくれば来る程に、神様が大きくこちらを支配して下さり、こちらの中に、入り込んで来て下さるものを感じておるのが、現在の私だとこう自分で思います。そして今日の御理解を頂いて、成程信心に連れはいらんというが、いやぁとてもあなたの真似はでけんと、人から言われる位な、意味合いに置いての連れはいらん、ね。日に日に生きるが信心なりと言われるが、日に日に自分というものが。むなしゅうなっていく無くなっていく、日に日に自分が死んでいく、そこに新たな今日の私がある。
日に日に生まれるの信心、ね。それを3代金光様は、日に日にが新らというふうに教えられた。まず日に日に新の信心が頂けると言う事は、自分というものがむなしゅうなっていかなければ新らなものも生まれない。昨日もあれば、一昨日もあると、言った様なのであっては、新らな事になって来ない。今日私はご神前で¥、「楠正成、楠正行」と言う事を頂いた。もう以前に楠正成と言う事を頂いたんですけども、この楠というのは、あの楠太りの信心と言う事が昔から言われます、ね。
例えば木によって、もうこれから以上は大きくならんと、言った様な木もありますね。けれども楠はあれはなんぼでも大きくなる。いわゆるお互い、その楠太りの信心をさせてもらわなきゃならない、ね。それにはね、ただすくすくと育っていく、正しく大きくなっていかなければ、ね。それこそ悪栄えと言った様な事があります、ね。信心が間違うておっても、例えばおかげを受けていくいる、おると言った様な者ではおかげにならん。でも正しい繁り方をしていかなきゃならない。
それには、正しい行が必要だと正行とは、正しい行と書いてある、ね。今これを過去にどういうふうに又変わっていくか分かりませんけど、今日の私が言えれる事はです。今合楽で言われておる合楽理念ほど正しい修行はないと思います。だからこれを身に付けていく限り正しく繁っていく、楠太りのおかげが絶対頂けると私は思う。この頃ある修行生の先生が、まあ色々合楽の信心を見た上ででしょう。
もう合楽にはその億万長者がいない。親先生も何もかにもことごとく言われるけれども、合楽には億万長者がいないと、まぁ言うた先生があったという事を、2~3日前の研修の時に、末永先生が話しておりました。なるほどそういやぁ億万長者がいない、ね。けれども私が思うのにね、今日の皆さんの一人一人が、億万長者になればよいと思うのです。そういうのでなからなければ役に立たんと思うです。
この頃からも選挙の中に大分あたりから、あのう県会議員して、中野さんのご兄弟なんかの御一家といえば億万長者です。もうどれだけあるか分からないそうです財産が、ね。だけどそのちょっとしたおかげ、おかげを頂くからというて、それがなら億万長者がなったって、ね。そりゃあ金を200万も300万も、お供えさして頂いたからと言ったって、たいした事は無いでしょう。
それこそ億万長者が、神様の為ならその億万を、ね、皆投げ打っても構わんというほどしの、私は億万長者じゃなかなければ値打はないと思うです、ね。だから合楽のおかげで選挙に当選したじゃなくてから、合楽のおかげで、今日のこの億万の財産も出来たんだと、言うならば思えれれる、信者が育たなきゃだめだと思うです。只今のかべ村さんというですね、もうだいたい落選と言う事であった。
どんなに考えたって、二千票足らないと言う事だった、どんなに見積もって計算してみても。そん時にあの頂いたのが、ちょうどあのう白い小さな花じゃない、あのままになる花という、その中に真っ白い花の中に真赤なカーネーションが3本入っているところを頂いた、2本でしたか、入っておるところを頂いた。だから信心のもう真赤な信心の真心、熱情をかければおかげになると私は、ね。帰りがけに綾部さんにその事を、晩遅くでした皆で、一家一門で参ってみえました。
そしてそこの、あのうお姉さんになられる方が、「私しは今日、もう応接間で親先生のお話を聞いてビックリした。」っち。と言うのは、その私今朝方お夢の中にです、そのあの白い花が、一杯咲いておるところを頂いたと。そしてそれがパッーとみな散ってしまうところを頂いた。そしたら今朝、今晩のあの話を頂いてビックリした。言うなら散る筈の運命の者であっても、真赤な熱情をかければ、ね。言うなら赤い心を持って神様に縋るならばおかげになる。
と言われたというて、一家一門の方が話し合われたのでしょう、あくる朝からさっそく、それこそ赤い心ですよね、あの人にとっては、ね。沢山の言うならばお供えがあったんです、ね。おかげで千票差で当選された。と言う事は三千票差でおかげ頂いたと言う事になるですね。二千票足りないのが千票多かったんです、ね。神様に赤い心を使われたんです。まぁ余談になりましたけれどもです、そういう程度のそん時だけの願いと言う事であってはです、ね。
日本ゴムのあのあちらの奥さん、のお届けがあった事もありました。三橋先生の遠い親戚になるんですよね。まだ三橋先生がおる時分です。ならまぁ億万長者なら億万長者でしょうよ。だからそげんとは、いくらあったっちゃだめです。そげんとは、もうここでです、もうそれこそ何にも無い中から、無一物の中からでもです、おかげを頂いて今日この億万の、言うなら長者と言われる程しの、おかげを頂いたという人がです、ね。
そして神様のためならいつでも、それこそ高橋さん方のすぐ近所におられます。あぁ甘木の信者さんなんです、ね。まぁ億万長者とまではいかんでしょうけども、もう大変な財産家ですけれども、今合楽のじゃない(笑い)合楽の親先生じゃない、甘木の親先生、甘木の親先生がいつでも「いるぞ」仰ったら、いつでもこのまま私の家、蔵の財産をお供え出来ると言っておられるそうです、ね。
そげんとじゃなかなきゃ役に立たんでしょうが、ね。だから私は合楽はこれから、いよいよ正しくしこっていく。それには正しい修行がいる。そりゃ様々な行がありますけれども、ね、それこそ夏の入道雲のようにあらわれ、大きなモリモリとした修行の様であっても、あっという間に消えるような修行じゃつまらん。いよいよ合楽理念をいよいよ持って、正しい行とさせてもらい、合楽理念のいよいよ行者とならせてもろうて、ね。楠太りのおかげを頂かなきゃならない。正しく繁っていくと言う事は。
合楽理念を持ってして初めて正しくしこって行くという事が言えるのじゃないでしょうか、ね。それには「楠正行」正しい修行がいる。今合楽で言われておる修行ぐらい素晴らしく、正しい間違いのない修行はないと思う。天地の親神様にそのまま交流する、言うなら神様と合楽が出来るほどしの、言うならば修行である、ね。そういう修行をさせて頂くほどしの物を、今合楽では頂いておるのですから、皆さんが一心発起して、とても私にはあんたの真似は出来んと言われる位な信心をさせてもらい、ね。
そしてそこにはいよいよ自分というものが、ね、そりゃあその過程においては、私が30数年前渕上先生と話したそれの様に、なら私がおかげ頂かんなら、私は頂く者はおらんと思う。もし私がおかげ頂かんなら、教祖様は嘘を教えてござると言うて、教祖様の御教えを、一か条一か条を実証していっておるのが今の合楽である。そこにはどう言う事になって来たかと言うと、いよいよ自分が、私がという、私が今が無くなって、ね。
毎日毎日して、それこそ私の様な者の所で、どうしてこういうおかげが、頂かれるようになっただろうかと、言う事になってきた。私がという我が無くなっていくに従って、そこに天地の親神様が入ってきて下さる、ね。言うなら最後にある、日に日に生きるが信心とはそう言う事だ。過去の自分の我というものが無くなっていく。自分が死んでいく、自分がむなしゅうなっていく、そこで明くる日なら今朝なら今朝、新たな私が生まれておる。そこに日に日に新らな信心が営まれていく訳なんです、ね。
そういう信心生活を目指させて頂く。金光教の信心はもう日に日に生きるが信心。とは、日に日に私が、ね、まぁ言うならば「自分の」というものが無くなっていく、我というものが無くなっていく、ね。そこに言うならば、限りない有り難いという心も、言うなら信心すれば一段、一段有り難い、一年一年有り難うなっていくと言われるのは、そういう事ではなかろうか。
その有り難いに、いやと言うてもついてくるそのおかげを持ってです、いよいよ楠太りのおかげと言う事になるのじゃないでしょうか、ね。正しい信心しなければ、大き、楠太りのおかげにはなりません、正しくしこっていかにゃあいけません、ね。それには正しい修行がいる。いよいよ日勝り、月勝り、年勝りのおかげを頂いて、ね、合楽には億万長者が、ゴロゴロしておると言われるような、おかげを頂きたいですね。
どうぞ。